折り紙批評体系

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 ちょっと大げさな題名をつけ過ぎた感じがしないでもありませんが、気持ちをわかっていただきたいと思います。創作折り紙という名で発表される作品が、過去の作品群、あるいはそのほかの表現世界、自然現象の影響のもとで、そしてこのような明確な動機の上に立って表現されていることを殆ど疑う余地がないのにも拘らず、これを真剣に受けとめ賛美、あるいは批判を行う環境がありませんでした。プロ、アマを問わず作家という人が少なからずいて、創作という名で新作が登場してくる世界で批評というものが殆ど存在しないのが折り紙の世界です。

 前置きが長くなりましたが、ここでは折り紙作品に対して批評することを真面目に考えたいと思います。

 最近になって、笠原氏をはじめとする雄弁な著作が出版されるようになってきましたが、これまで多くの批評的性格を持った文章は、創作を中心とする活動家の手によるものです。このような立場からの客観的な批評は難しく、著者自身、これまで創作を発表することでのみ折り紙と係わってきたひとりです。しかしながら、多少なりとも作品に対する批評を行うためには、その世界に関する知識を持っていることが必要であり、更になによりもある作品(作家)に対する感動が無ければならないでしょう。その意味でこれらを満たしている人々は、つまり自身が創作家となり得た人々であったこともまた事実です。それを承知でここでは折り紙を折らない人の折り紙に対する係わり方を考えることにもなると思われます。

 それでは次に折り紙の世界に既に存在する幾つかの価値観について考えていきたいと思います。以下箇条書にまとめますと、

  1. 一枚不切を目指すこと
    • 一枚不切至上主義
    • 同一造形に対する
      • 一枚不切の優位
      • 正方形の優位
      • 構造の合理性の優位
  2. 造形的価値
  3. 幾何学的価値
  4. 遊戯的価値
  5. 文化的価値
  6. 教育的価値

 以上のものに大別されるようです。

 批評体系を考える上での常套手段は、まずその歴史を考えることでしょう。何れの価値観に立ってみても「かつて無かった」という評価方法があるからです。しかし折り紙においてこれほど、厄介なものはありません。公表の前後で並べてしまうことはできます。しかし作品を公表する機会の均等はある程度批評体系が出来て初めて実現されると考えられます。明らかな資料が存在する場合を除きこの視点による優劣をここでは重要視せず、つまりどこが良いのかという点に絞って考えたいと思います。また5、6の観点は他の観点が論じられることによって、つまり折り紙なる造形手法がいかなるものかという認識の上に立って考えられるべきものでしょう。ですから次回からは1〜4について考察を進めることにします。

一枚不切を目指すこと

 友人との雑談が折り紙の話に及ぶと「折り紙は正方形でなくてはいけないのか」とか「鋏を使うのは邪道なのか」とか聞かれて困るときがあります。個人の主義としてこのような言葉は使われますが、現実の作品を見渡してこの基準を満たしていないものはかなり沢山あります。ではいったい折り紙とはどんなものなのでしょうか。このことを考えるのにいわゆる折り紙が成立する過程を二つの方向から思考実験してみましょう。折り紙ですから紙が必要です。そこで一つ目は初めに紙があったというところから始めてみましょう。

 ここに紙があります。紙は折られるものです。その紙が便箋なら三つ折り、四つ折りすると封筒に収まることに気がつくでしょう。薬包紙包みは中の薬が飛び出さないように、また小さく持ち運び便利になります。大きなポスターは丸めるとやはり運ぶのに楽です。紙は折られることによって(折ると曲げるを区別するかしないかはそれ自身テーマとなるところですが)様々に形を変え目的に適応することができる素材です。そんななかでいわゆる折り紙は紙が折られることによって何かの形を示す作業、つまり造形が目的となったものと言えるかもしれません。*1

 もう一つはこれとは逆に、造形を目指して紙という素材を選び、更に手法として折ることを選ぶに至るとき初めの造形の目標はどんなものだろうかと考えてみる方法です。便箋に例えれば、中に書かれたものが保存されなくてはいけないわけですから、同じように封筒に収まるにしても切ってはならないし広げたときに文字が読み取りにくくなるほど複雑に折ってもいけません。ポスターの場合となると描かれた絵が折り線によって損なわれないように丸めるという手法が適切に選びだされたと見ることができるでしょう。しかし一度造形が目指されると折るという手法にこだわる意味はこんなに単純にはいきません。出発点の目標に当たりを付ける意味でも、一つ目の考えをもう少し進めてみる必要があります。

 一つ目の考え方はもう少し強い言い方をすれば、紙という素材に出会ったとき折ることがもっとも自然な行為ではないかということです。そうして折り始めた人は様々な発見を喜びます。折り紙の魅力の一つが折る工程そのものであることは多くの人の認めるところでしょう。ひと折りひと折りで規則的にあるいは思いがけなく形が変化していく様は、自分の指で折っているにも拘らず何か自然を観察しているような気がしてくるものです。折っているうちに何かの形に見えてきて、更にそれらしい形にしようと工夫を楽しみます。創作者は、このような折るという手法の持つ魅力と最終的な形(造形)とを同時に認識します。そして少し意地悪く言えば、同時に体験するがゆえに混同します。表現として三次元的に示される折り紙の作品は、少なくとも作者にとっては四次元的に認識されているはずです。この感覚はテーマとして物の形を示そうとしているにも拘らず、一枚不切なる制約(表現を目指すには余りに強い)を掲げさせるものと思います。このような視点に立てば作者の意図が表現にあるのか、手法そのものにあるのかが批評の対象となってくるでしょう。実際は、両者の力点が様々にバランスして折り紙的(四次元的な)と言えるような世界が出来てくると思われます。一枚不切にこだわることは、折り紙的であろうとするときのもっとも易しい(たとえ技術的な壁がどんなに大きくとも)規準であると理解します。つまり、「これは一枚の紙から出来ています。」という言葉が、事実が紙の変化してゆく動的なイメージを(たとえ極めて不正確であっても)鑑賞者に想像させて、作者の認識に近づけるきっかけを与えます。しかしながら、真に鑑賞者に想像の努力を促すものはこのような事実でしょうか。筆者は最終的に表現された形であると考えています。

 折り紙において一枚不切という制約に対する議論はまだまだ続けていかなくてはなりませんが、とりあえず全体を概観する意味で、次は造形的な意味について考えてみたいと思います。

 話が抽象的になってしまいましたが、ここでの議論は漠然と認められてきた価値観を評論する切り口を模索するものです。これをお読みになった方の御意見をお寄せ下さい。誌上討論や座談会のような形式も考えたいと思います。

*1 伝統的に折り紙と呼ばれるものの中で紙飛行機は、機能面での評価が可能であり、目標が比較的容易に定義されます。この種の作品は今後折り紙の遊戯性と関連させて考えることになると思われます。

造形を目指すこと(1)

 今回は造形的な意味について考えてみたいと思いますが、その前に前回の議論のなかの“折り紙的”ということについて今少し考えておきたいと思います。

 前回、筆者はそれを四次元的と表現しました。折り紙とは折ることを前提として表現されている造形であり、作者は、最終的に表現され空間に広がった造形とそれが形成してゆく過程(もう一つの次元)を同時に認識しています。折り紙の作品は、このような四次元的な認識に立って初めて独特な表現手段として成立すると考えられます。鑑賞者がこれを体験できるのは、非常に常識的ではありますが実際に折ってみることです。どんなに易しい作品でも、表現として曖昧な作品でもそれが成立する過程を体験できれば折り紙でしか味わえないものが認識されるのではないでしょうか。それを承知の上で、筆者は“しかし”と考えてみることにします。

 折り紙をすっかり忘れてしまった人、折り紙に初めて出会う人々に「さあ、折りなさい」と言うことはかなり抵抗があることのように思えます。音楽に例えれば、いきなり楽譜を見せられて「さあ、演奏しなさい」と言われているようなものかも知れません。だとすれば、折ること無しに折り紙の作品をどのように評価すれば良いのでしょうか。前回述べた一枚不切という事実が担う役割はまさにこのためのものとも言えるのです。更に説明的にいうならば次のようになります。先に折り紙独特のものは、その四次元的な所にあるのではないかと筆者は言いました。そして造形以外のもう一つの次元(折る工程)を直接体験することが難しい場合がありそうだと考えました。そのような場合、折らない鑑賞者はある作品が一枚の紙から作られているのだという事実を知識として取り入れ、少し想像を巡らすことでもう一つの次元を補うことになります。

 以上のことを念頭におきながら“折り紙的”と言うことについて造形的な立場から考えてみたいと思います。

 折り紙がどんなものをテーマに選んできているでしょう。ある種のデータを示さなければならないところですがそれを割愛しても、テーマは実際に存在するかあるいはなにか別の表現手段によって示されたことのあるものだということは認められるところでしょう。言い直せば、既に一般的な共通の概念が成立しているものです。手法として制約の強い表現法にとってこれは、宿命的なものとも考えられます。このことを筆者は悲観しているのではありません。そこには、知識や感覚を共有するものの間で成立するパロディー感覚や見立ての面白さが生じます。このような面白さは、幾つかの表現手段(似顔絵、影絵など)にとって独特のものであって、折り紙による造形もその仲間にはいると考えられるでしょう。そこで、作家はいろいろな表現法を考えます。

 ある作品、例えば“象”という作品があったときそれは“折り紙による象”と鑑賞されるものです。折り紙である以上折ろうとすれば折れるものでしょう。そして、折ってみるときにすることは最終的な造形を思い浮かべることです。これは先に述べたこととは逆のことで、鑑賞者が表現された形をどのように認識しているかが四次元的な捉えられ方を左右します。その象が、「インド象ではなく、なるほどアフリカ象をイメージして作られている」とか、「牙が表現されていたが、なるほどこう折れば牙が折り出せるのか」などとやるわけです。表現されるものが共通の概念を前提としているなら、上述の例でどちらの意識がより一般的でしょうか。筆者は後者のような気がしますが、前者が共通の概念として成立していれば作品をより楽しめることは確かでしょう。ここに、作品を評論することの一つの意味が生じてくると考えられます。

造形を目指すこと(2)

 前回の“折り紙による象”に対してもう少し別の見方をしてみましょう。前回は、折り紙なのだから折ってみようと始めましたが、ここでは再び折らない鑑賞者の目を借りることにします。折り紙の作品はその人の目にどのように映るでしょうか。

 この問いは、言い換えれば折り紙の作品が持つ情報についての問いでもあります。前回、折り紙のテーマがある種の共通概念を前提として示されていることを考えました。そしてそこから見立ての面白さが生じてくるだろうと筆者は言いました。細長い角(かど)は、鼻に見立てられ、その下の角は牙に見立てられ、胴体の下の4つの角はそれぞれ足に見立てられて、全体として象の形をしているかどうか眺められます。そういう意味で言うと、いかに精巧に、リアルに表現された作品でも、けっして対象その物を説明し得るものではありません。リアルに仕上げられ、多くの細かい特徴を表現している作品ほど、より多くの前提となる共通の認識を鑑賞者に対して要求することになります。このように考えると批評するためには2通りの立場を取ることが出来ます。鑑賞者に対する要求の正当性を吟味することと、要求をできるだけ受け入れて、見立ての成功不成功を問うことです。

 作品が折り紙であることを思い出してみる必要があります。折り紙の作品の持つ情報の一つが最終的な形であるなら、もう一つの大切な情報は、それが折ることで形作られているということです。折らない鑑賞者には、例えば、折って作られた象は(事実折って作ったのだから)必ず折って作られていると認識されるでしょうか。鼻は、折っているように見えますか? 牙はどうでしょう、足は、それらすべては一枚の紙から折り上げられていることが理解されますか? この問題は極めて重要です。前回、あるいは前々回の議論の中でこれを折ること無しに体験する術は、知識でありました。しかし、もし、折って作られた形がそれ自身で折って作られていることを明示しているなら、手法と造形を非常に効果的に同時体験することが可能だと思われるからです。

 折り紙の世界にどっぷり漬かった筆者にとって、このことを想像してみることはもはや容易ではありません。鶴の頭のたった1工程前が真っすぐな角であることの面白さが理解されるでしょうか。正方形でも長方形でも90度の角は、4つしか在りません。5つ以上の角があれば必ず1つ以上は180度(つまり辺)から折り出さなくてはいけません。当然、紙の重なりは倍になります。それを見付けて折っていることを信じることができるでしょうか。恣意的に彩色されていない紙を用いて3色以上の色分けが美しい作品が2枚以上の紙を用いる必然性を理解してもらえるでしょうか。少なくとも鶴の頭に代表される部分については、折られていることとそれが何かに見立てられることを同時に体験できると信じます。第2回で議論した、“手法として折ることを選んだ立場”で考えるなら、この同時体験を期待することこそ造形の目標であるように思われます。折るという手法の独自性は、折るという手法とそれによって得られる(発見される)形(色分け)が何かに見立てられる(美しい)ことを同時に理解されたとき極めて効果的に発揮されるでしょう。正方形からそれが形作られる様を正確に理解することが難しいにしても、折って形が作られていることを本当に信じさせてくれるような発見がそこにあれば、一枚であるとか、不切であるといったような知識による理解補助とは比べものにならない感動が得られるものと期待します。

 折るという手法で得られる(発見される)形に一体どれほどの多様性があるものでしょう。それを考える意味で次回は幾何学的な側面から考えてみます。

折り紙と幾何学について

 折り紙を幾何学的にとらえることについて、筆者なりに整理したいと思います。

 折り紙と幾何学との関係を考えると大きく二つの立場があると思われます。一つは、ある形(造形)を達成するための技術としての係わり方です。例えば、辺や角を何等分かしたり、何らかの比率を求めるために必要な技術や知識。幾何学的な解析はこれらの目的に合理的な答えを用意してくれることは理解できます。

 もう一つは、幾何学の問題を折り紙で表現するやり方です。例えば、有名な任意角の三等分(阿部氏)を一つの作品としてみることです。このためには、前回述べた「造形に対する前提となる共通概念の必要性」と同様に幾何学的な背景を必要としそうです。

 具体的に見てみましょう。

図1

図2

 任意角の3等分という問題は、ギリシャの三大難問の一つで、「直線定規とコンパスだけを用いて任意の角の3等分をせよ」というのが本来の問いの形です。では、それが折り紙で出来たということはいったいどういうことなのでしょうか。図の1を見てください。今任意な角AOBについて点C,Dがそれぞれこの角を3等分する直線を与えています。(△XYZがすべて合同)このような点C,Dは、次のように求めることが出来ます。図の2のようにOBからaだけはなれたところにOBに平行な直線lを考え太い線で示したT定規をDがl上にかつEがOA上に、かつ柄に当たる直線がOと重なるように置けば、図の1になることが判ります。このようなT定規を使って良いなら難問とは呼ばれなかったわけです。*1

図3

 では、折り紙は何をしたのかということを考えてみなければなりません。実際の折り手順は図の3に示したものです。*2 図の1が作図されています。もとより、折り紙は定規もコンパスも使用しないわけですから長年の難問を解き明かしたわけではありません。実は、コンパスと直線定規では不可能であることは既に証明されています。つまり「折るという作業のみで(都合の良い道具を使うこと無しに)コンパスと直線定規では得られない作図が可能であることを示した」とは、折り紙独特の幾何学の存在を示したことになります。*3

 折ることに潜む独特の幾何学が持つ自然さが、私達がボールの弾道を見て放物線という知識を持たずとも自然な飛び方を感じ取れるほどに自然に感じられて、折り紙の作品を見た時、折ることによって形造られていることを理解させてくれるなら、折るという手法を造形の手段として用いた意味は更に大きなものとなると思われます。

*1 「数学ふしぎ・ふしぎ」新潮文庫 矢野健太郎著
*2 「おりがみ新世紀」笠原邦彦著
*3 「創造性の文化と科学」伏見康治編著 の藤田文章氏の章は、このあたりに興味のある人は是非読んでみてください。

 そのほか、ピーター・エンゲルがフラクタル幾何学をその著書の中で大きく取り上げていたのは興味深い。

折り紙の遊戯性

 これまで筆者が述べてきたことは、折り紙を語るための思考法の模索でありました。そのため、これまで既成の幾つかの価値観に対して筆者なりの思考法を展開してきたわけです。最終回の今回取り上げるのは、折り紙の遊戯性についてということになります。

 遊戯とはどんなものでしょう。例えば、弓矢はただ思うに任せて射っているだけでは遊びとはならず的を目掛けて努力したとき遊びとなります。けんだましかり、ファミコンしかりです。遊戯は、行為に対する負荷とその先にある目的に対する達成感が対になって成立していると考えられると思います。そして、目的のためにその負荷が耐えうるものでなければいけません。折り紙は折るという負荷に対して、それが機能する(飛ぶ、何かの形に見える、美しい)という代価を得ます。この対を揃えることが折り紙が遊戯であるための条件と考えられます。筆者は、これまでこの対を同時に認識することを折り紙的(四次元的)と言ってきました。折り紙は、遊戯としてこれを捉えたときもっとも強い意味で折り紙的であると言えるでしょう。造形として捉えた折り紙についてその造形過程を想像する意味や、一枚不切のようなルールにこだわる意味について考えるとき、遊戯として成立する折り紙が、折り紙が造形やパズルとして面白く、独特であるための条件をバランスよく備えていることは驚くべき、しかし、当然であるかも知れません。

 折り紙が遊戯であることは、多くの日本人にとって論を待ちません。遊戯としての折り紙を体験している人にとって、折り紙を折ることと切り離して考えることは難しいでしょう。折るという負荷に耐えられなくなったとき、その負荷と目的のバランスが崩れ去ったとき、多くの人は(鬼ごっこやかくれんぼをやらなくなるように)折り紙を忘れてゆきます。逆に言えば、折り続ける人にはそのバランスが保たれていることになります。或る人は、負荷に耐えうる目的を見いだし、或る人は、負荷の中に(一折り一折りの変化の面白さ・・)に小さな目的を見付けます。そうして、無意識のうちにこのバランスを保ち続けた人が、創作と呼び、作品を見て貰い、折って貰いたいと感じるようになったとき、折り紙の作品が、負荷と目的のバランスが崩れ去った人々や違った目的を持った人に、新たにどのように映るのかを考えることになるはずです。

 作家をして、このような負荷を耐えさせた目的が必ずあるはずです。それが伝わらずして何が面白いでしょう。批評することが、そのための手助けとなれば素晴らしいと思います。

 長々と続けてきた抽象的な議論はそろそろおしまいにしなくてはいけません。回を改め、具体的な作家や作品についての批評的な文章を書かせていただくことになるでしょう。これまで、これをお読み戴いた方で、批評することの必要性を感じて戴ければ幸いです。この新聞をお読みになっている方は恐らく、折り紙が大好きな方々でしょう。大好きと言えるような作品や作家について、語ってみてください。どんな小文でも構いません。投稿は何時でも募集しています。多くの人の折り紙作品に対する思いが、折り紙批評体系なるものを形造っていくものと思います。