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折り紙の哲学

第1章 「折り紙」という語
折り紙の哲学入門

(折紙探偵団新聞第37〜40号)

哲学とは理論ではなく行動である。
  L・ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』

哲学を学ぶことはできず、せいぜい哲学することを学ぶことができるだけである。
  I. カント 『純粋理性批判』

他人に学んでも自分で考えなければ無知に等しい。自分で考えても他人に学ばなければ無思慮に等しい。
  孔子 『論語』

哲学することなしに生きるということは、まさに、目を閉じて決して開こうとしないということである。
  R.デカルト 『哲学原理』

「哲学」という言葉は、ギリシャ語の「フィロソフィア」に由来します。この言葉を文字どおり訳すと、「知を愛すること」となります。「科学」という言葉は「分科の学」を表します。なにか特定の対象について研究するのが科学です。その意味で、哲学は科学ではありません。哲学に特定の対象はありません。哲学とは考えるということだといってもよいでしょう。「折り紙って一体なんなのだろう」と考えることは立派な哲学です。この章は、「折り紙の哲学」入門であると同時に、折り紙の「哲学入門」でもあります。

「語の意味」とは何か

私たちは世界を、(広い意味での)言語によって認識しています。名前をつけるということは、AであるものとAでないものとを区別する作業です。「赤」という語があって初めて、連続した七色のスペクトルの中で赤とそうでない色を区別することができます。もしも言語がなかったら、私たちにとって、世界には何も存在しないことになるでしょう。

さて、語の意味とはなんでしょうか。「赤」という語は、「純粋な赤の概念」を指し示しているのでしょうか。

私たちは他人の心の中を直接覗くことはできません。私たちは、ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「言語ゲーム」に参加していて、その外ではコミュニケーションは成り立たないのです。したがって、「純粋な赤の概念」があったとしても、私たちはそれを共有することはできません。それならば、言葉が、言葉の外にあるなにかを指し示していると考えることは無意味です。

一つの語は何かを指しているわけではありません。ヴィトゲンシュタインによれば、語の意味とは日常の言葉の中における使い方にほかなりません。「赤」という語の意味を理解しているということは、「この石板を赤く塗れ」という命令に適切に対処したり「赤い花を見たことがあるか」という質問に適切に答えたりできるということです。

「折り紙」という語

では、「折り紙」という語はどのように使われているでしょうか。実は、「折り紙」という語には、いろいろな使い方があります。

例えば「明日『おりがみはうす』にいって折り紙を買ってこよう」という場合があります。また「私の趣味は折り紙です」という場合もあります。さらに「彼女の折った折り紙はきれいだ」という場合もあります。みな「折り紙」という語を使っていますが、使い方が異なっていることにお気付きでしょうか。

そのことをはっきりさせるために、それぞれの文の意味をなるべく変えないようにして、「折り紙」のところに別の表現を入れてみましょう。第1の例では、「折るための紙」を入れるとよさそうです。2番目には「紙を折ること」を、3番目には「折った紙」をそれぞれ入れることができます。つまり、「折り紙」という語には少なくとも三つの使い方があります。これを「折る前」「折る途中」「折った後」といいかえることもできます。

もちろん、3つのうちのどれにもあてはまらない使い方があるかも知れませんし、2つ以上にまたがって使われることがあるかもしれません。また、同じ文の中で使われていても文脈によって使い方が違うということもあります。私たちが普段何気なく使っている言葉は、実はとても複雑です。

日常の生活の中にこのような「驚き」を発見したら、あなたは哲学の門の前にいます。

シニフィアンとシニフィエ

話をもとに戻しましょう。「折り紙」という語には少なくとも3つの使い方があります。紙に書かれたり、発音されたりする「折り紙」という1つの語が、この3つの使い方を担っているのです。この状況を分析するには、おそらくソシュールの言語についての考え方が参考になるでしょう。

ソシュールは、言葉の表現そのものを「シニフィアン(記すもの・能記)」、言葉の内面としての概念を「シニフィエ(記されたもの・所記)」と呼びました。この用語を使うと、「折り紙」という語のシニフィエは少なくとも3つの使い方ができるだけの広さを持っているということができます。

前の議論とも関係しますが、「シニフィアンがシニフィエを指し示している」と考えてはいけません。語のシニフィアンとシニフィエは、いわばコインの裏と表にあたります。シニフィアンとシニフィエを切り離して別々に考えることはできませんし、1つのシニフィアンに3つのシニフィエが対応している、と考えてもいけません。

「折り紙」は日本語

この概念を使って、日本語の「折り紙」と英語の"paperfolding(ペーパーフォールディング)"、北京語の"折紙(ツォージー)"を比較してみると、おもしろいことに気がつきます。

"paperfolding"と"折紙"のどちらも、文法的に考えると、前章で分析した2番目の使い方しかできません。私はこれらの語が実際どのように使われているか知りませんが、もし2番目の使い方以外の使い方をするのなら、それは文法的に不自然な使い方だといえるでしょう。つまり、これらの語のシニフィエは、「折り紙」のそれとは一致しないのです。

さらにいえば、日本語の文法の上では、3つの使い方という広がりを持った「折り紙」という1つのシニフィエと「折り紙」という1つのシニフィアンとで1つの「折り紙」という語が成立するということが自然なこととして理解できます。このことから、「折り紙」はすぐれて日本語であるといえるでしょう。

「跳び箱」と「折り紙」

ところで、「跳び箱」と「折り紙」を比べてみましょう。「跳び箱」という語は、「跳ぶための箱」と「箱を飛ぶこと」の2通りにしか使われません。跳んだ後は問題にならないのです。それに対して「折り紙」では、折る行為と、折った結果とが常に一緒に意識されています。

このことを、西川誠司は「四次元的」と表現しています。つまり、「折り紙」という概念は、折る過程としての行為と折った結果としての三次元の作品との両方を含意しているのです。「折り紙」は、単に「紙を折ること」ではありません。

では、「折り紙」と「紙を折ること」の違いはどこにあるのでしょうか。

哲学とは

哲学の営みとは、答えを明らかにすることではなく、問いを明らかにすることです。「折り紙って一体なんなのだろう」という漠然とした疑問は、より具体的な疑問を産み出しました。しかしこのことは、私たちが解答に近づいたことを意味しません。むしろ、私たちは、解答がどんなに遠いかを知ったのです。いま、私たちは哲学の門をくぐりました。

これから、この問いをめぐって議論を展開してゆきます。ところが、何を折り紙と呼び、何を呼ばないか、ということが人によって異なることがあり得ます。したがって、これからの議論の中で、どうしても納得できない部分が出てくるかもしれません。哲学の議論をするときに、絶対に確実な出発点、すなわち「アルキメデスの点」が存在することは希なことです。アルキメデスの点は、現実の世界に生きている私たちの直感に求めざるを得ません。

これからの議論は、「私の理論」ではなく、「私の問題提起」だと受けとってください。そして、皆さん自身で改めて考えてみてください。それが哲学です。

「折り紙」と「紙を折ること」

この『折り紙探偵団新聞』を物理的に見ると、半分に折られた紙が重なっています。しかしこの新聞自体は「折り紙」ではありません。本を読んでいてしおりがないとき、頁の端を折ることがありますが、これも「折り紙」ではありません。紙をくちゃくちゃに丸めたときでさえ、広げてみれば「折り目」が付いています。これらの場合と折り紙とはどう違うのでしょうか。

紙を丸めるとき、彼は紙を折っていもするのですが、そのことを意図しているわけではありません。つまり、彼は意図的に紙を丸め、非意図的に紙を折ったのです。一方、折り紙の場合は紙を折ることを意図しています。しかし新聞を折ったり頁の端を折ったりするときもまた然りです。

新聞を折る場合、紙を折ることによって新聞を封筒に収めることも意図しています。頁の端の場合は本を閉じても読んでいた場所が分かるように意図してもいます。このような「さらなる意図」は、意図的に紙を折る際に、どの様な折り方をすればよいかの指標を与えます。(指標を与える意図はさらなる意図だけとは限りません。頁の端を折る場合には本をなるべく傷めないようにするという意図も働くでしょう。)

折り紙の場合、このさらなる意図は「形を作る」という意図です。

そんなに単純じゃないぞ

今までの議論で納得してしまった人はまだ修行が足りません。事実ははるかに複雑です。現実的には不可能に近いですが、理論的には、非意図的に折り紙をする場合があり得るのです。

例えば、ある人が、紙を折ることで紙の強度を調べたいと思って、いろいろ折っていたとします。そうしたら偶然にも、我々が「折鶴」と呼んでいる形になってしまったとします。

彼は紙を折ることを意図し、紙の強度を調べることを意図しましたが、形を作ることを意図してはいません。したがって彼は意図的に折り紙をしたのではないのですが、横で見ていた人に「あなたは折鶴を折ったのだよ」といわれればそれを認めざるを得ません。そのとき、彼は「非意図的に折り紙を折った」といわれるのです。

ここに創作の場面が絡むとさらに問題は複雑になります。例えば、紙の強度を調べることを意図して紙を三角に折った人が、後になって「これは『山』という作品で、私が創作したのだ。」といったとしたら、また、隣の人が「あなたは創作をした。これに『山』という名前をつけてあげよう。」といったとしたら、彼は折り紙を折ったといえるでしょうか。

折り紙は(折り紙に限りませんが)一人でこそこそとするものではありませんから、どうしても「他人の視点」が入ってきます。したがって、本人の意図だけを考えていたのでは不十分です。

『風呂敷』と『4分33秒』

皆さんはジョン・ケージの『4分33秒』という作品を知っているでしょうか(折り紙作品ではありません、念の為)。この作品は、今世紀を代表する作曲家の1人であるケージが1952年に作曲したものです。この曲は、休符だけでかかれています。つまり、演奏家はいっさい音を出さないのです。

折り紙でこれと似たようなものといえば、『風呂敷』ということになるでしょう。つまり、まったく折っていない正方形の紙です。さて、まったく音を出さない『4分33秒』が音楽として認められている(それどころか、この作品は自他ともに認めるケージの代表作です)のであれば、まったく折っていない『風呂敷』も折り紙といえるでしょうか。

そのことを考えるために、しばらく折り紙から離れて、『4分33秒』について詳しくみてみましょう。

『4分33秒』はなぜ音楽か

『4分33秒』において、ケージは、聴衆に音を聞かせなかったのではありません。ケージの主張は、「演奏家が音を出さなくとも、音はすでにそこにあるのだ」ということなのです。実際、どんなところでも、耳を澄ませば何らかの音が聞こえてきます。

さて、『4分33秒』が実際に演奏される場面を考えてみましょう。演奏家は、出版された楽譜を使って練習をします。演奏会の当日、会場には聴衆が足を運びます。演奏家が登場すると聴衆は静かになり、耳を澄ませます。演奏家が演奏を始めます。そうして、音が聞こえるのです。

こう考えてみると、『4分33秒』は「一般的な音楽の形式」に完全に則っていることがわかります。『4分33秒』は、ほかの音楽作品と同様、演奏されなければなりません。そして、音楽が演奏されるためには、それがコンサートホールであろうとプライベートな空間であろうと、ある「一般的な形式」に則っていなければなりません。

もちろん、ここでいう「一般的な形式」は、完全に明示されているわけではありませんし、「規則」というほど強い概念ではありません。

『風呂敷』は折り紙か

さて、『風呂敷』に話を戻しましょう。折り紙についても、音楽と同じような「一般的な形式」があるはずです。そうでなければ、紙あるところにすべて折り紙あり、ということになってしまい、「折り紙」と「紙を折ること」の違いがわからなくなってしまうばかりか、この世に存在する紙のすべてが折り紙の作品である、ということになってしまいます。

そして、「『風呂敷』は折り紙か」という問いに対する答えは、「折り紙の一般的な形式」をどう考えるかということに依存するでしょう。

しかし、「折り紙の一般的な形式」は、音楽よりもさらに漠然としています。私たちは「一般的な形式」の内容を明確にしてゆかなければなりません。そのためには、私たちがすでに共通して持っているものを取り出してきて理論化するというだけではなくて、私たちが日々の実践を積み重ねることで、内容そのものを固めてゆくということも必要です。


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by Koshiro