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折り紙の哲学

第6章 芸術としての折り紙
現代絵画から折り紙が学ぶこと

(折紙探偵団64号)

ピカソの絵をごらんになったことがあるでしょうか。人によっては、モンドリアンやカンディンスキー、デ・クーニングやウォーホルの絵を見たことがあるかもしれません。そして、こう思ったかもしれません。「どうしてこの人はこんな絵を描いたのだろう」と。

現代絵画の誕生には、写真の登場というできごとが深くかかわっています。写真が登場する前には、絵画は世界の窓であるという考えがありました。額縁が窓枠で、キャンバスはガラスです。画家は、透明なガラスを透して世界を見るのと同じような仕方で、キャンバスに絵を描くのです。しかし、絵画が世界の窓だとすれば、写真も同じです。しかも、写真の方がはるかに手っ取り早く世界を写すことができます。19世紀フランスのある画家は、写真というものをみて「今日を限りに絵画は死んだ」といいました。

しかし絵画は死にませんでした。それは、絵画が写真とは異なる存在価値を持っているからですが、19世紀後半から20世紀にかけての西洋の画家は、そのことをあらためて明らかにする必要がありました(註1)。非常に興味深いことに、何人かの現代の画家、たとえばモネは、下書きを描くかわりに写真を使うことがあります。もし絵画が世界の窓に過ぎないならば、すなわち画家があれやこれを描きたかったのであれば、写真の上に付け加えるものは何もないでしょう。モネが描いたものは睡蓮の花や葉ではありません。

註1:このことについては、写真の登場のほかにも理由が考えられます。たとえばグリーンバーグは、この理由を、カントの哲学に代表される「近代」性に求めています。あるいは日本美術との出会いも一つの理由でしょう。

絵画は、あるいは絵画に限らず芸術は、世界の本質を再現(アリストテレスの言葉ではミーメーシス)するものです。画家は、私たちが普段見ている世界ではなく、画家の目を透して見た世界を私たちに提示するのです。絵画は世界を別の切り口で描くことができます。そして、絵画によってしか示すことのできない切り口というものがあるのです。画家がそのような切り口を私たちに示してくれたとき、写真や彫刻とは異なる存在価値を持った絵画が成立します(註2)

註2:絵画が単なる世界の窓でないのと同様に、写真もまた単なる世界の窓ではなく、それゆえ写真も芸術の一分野であります。

モネは世界を、睡蓮の池を、ありのままに描きました。ただし、モネの目を透して描いたのです。セザンヌはモネを評してこういいました。「彼は目に過ぎない。しかし、なんという目だろうか。」ここでは、世界が表現されているというよりも、世界を再現するスタイルが表現されているのです。

ここで、折り紙について考えてみましょう。私たちは、写真もペーパークラフトもある現代に生きています。実物と同じ形をした模型を作りたければ、折り紙で作る必要はありません。一枚の正方形の紙を折るだけで実物そっくりの模型を作ったら、「すばらしい」といわれるかもしれません。では、はさみを使ったらすばらしくなくなるのでしょうか。紙を二枚使ったらすばらしさが半減するのでしょうか。問題はそういうことではないはずです。折り紙には折り紙にしかできないことがあるはずです。折り紙作品が、折り紙を透してでなければ見ることのできない世界を再現しているのでなければ、折り紙作品を見る意味があるでしょうか。

再び絵画に話を戻しましょう。しばしば、現代絵画はよくわからない、といわれます。それは、もしかすると、「何が描いてあるのかわからない」ということかもしれません。では、静物画を見て、「果物が描いてある」ということがわかったとして、それでその絵画がわかったといえるでしょうか。そもそも、絵画は「わかる」ものなのでしょうか。「答えはない、なぜなら、問いがないからだ」とはデュシャンの言葉だと伝えられています。

では、私たちは絵画をどう見ればよいのでしょうか。デニはこういっています。「絵画は、軍馬や裸婦や物語である前に、ある秩序を持った色で覆われた平面であるということを忘れてはならない。」つまり、絵画をみるときは、それが抽象的な絵画であろうと具象的な絵画であろうと、またいつの時代に書かれた絵画であろうと、何が描いてあるかをみる前に、色のバランスや構図などをみることになるのです。この段階を飛ばしてしまうと、リキテンスタインの絵が漫画にしか見えません(註3)

註3:一方、この段階でとどまってしまっては、絵画を見る楽しみが半減するというものです。ロスコはこういっています。「もし私の絵の、色の関係だけで感動するなら、焦点がずれている!」

折り紙作品も、何かに見立てられる前に、折られた紙です。そして、折られた紙によって再現される世界こそが、折り紙を透してでなければ見ることのできない世界です(註4)。抽象的な作品であろうと具象的な作品であろうと、折り手は紙と折りにもっと気を配らなくてはなりません。

註4:私はここで、折り紙を折らない鑑賞者を想定しています。

まず、紙は、幾何学的な正方形ではなく、色や質感や厚みや手触りや匂いを持った物理的存在であるということを忘れてはなりません。紙は折る前からすでに立体なのです。折り紙作品は、これらの紙の性質を生かしていなければなりません。たとえばジョワゼルは「作品を創作するより紙を選ぶほうがよっぽど難しい」といいます。また、ラ・フォースは、一つ一つの作品を折るに際して紙を自ら作っています。

次に、一つ一つの折りが表情豊かでなければなりません。吉澤は、多くの場合、紙を宙に浮かせて折ります。紙を机の上で折った場合、指は紙の片側だけにしか触れません。紙を宙に浮かせて折れば、紙の折れを両面から感じることができます。こうすることによって、彼は一つ一つの折りを自在に調整しているのです。紙を折るのに爪を使ったりへらを使ったりするのは、私はあまり感心しません。

絵画は単なる世界の窓ではない、といいました。絵画は、何ものかの像であるかもしれませんし、そうでないかもしれませんが、いずれにせよ、絵画として、この世に存在しています。つまり、絵画はそれ自体オブジェでもあるわけです。何人かの現代の画家はこの事実を重く見ています。彼らは、キャンバスの上の絵の具を見せるのではなく、絵の具の塗られたキャンバスを見せるのです。

キャンバスや紙などを専門用語で「支持体」といいます。それらは伝統的に絵の具を載せるためのものでした。キャンバスの上には、絵の具が染み込まないよう目地止めが塗られ、絵の具の発色がよくなるよう下地が塗られました。支持体は文字通り、絵画をサポートするものだったのです。しかし、今日では、多くの画家が生のキャンバスを使っています。絵の表面にはキャンバスの色や凹凸が現れます。キャンバスは透明なガラスではなくなり、それ自体の個性を主張し始めるのです。ローゼンバーグはこういいます。「それは自然を複製するのではない、それが自然なのだ。」

ステラは、さまざまな形をしたキャンバスを使い、色を塗らない領域を残すこともあります。さらに、フォンタナは、キャンバスに色を塗った後、ナイフで切り込みを入れることによって、絵画の「もの」としての性格を強調しました。絵画はもはや幻想を見せる窓ではあり得ません。何しろ、キャンバスの向こう側には木枠が見えるのですから。

このことを念頭において折り紙を考えれば、折り紙の新しい可能性に気がつきます(註5)。私たちは、「折りと折りを載せるための紙」を考えるかわりに、「紙と紙を見せるための折り」を考えることができます。この考えでは、折り紙作品を折ることはもちろん、折り紙作品の創作も、現実の紙を手にすることから始まります。折り方を考えてから紙を探すのではなく、紙の個性を基準に折り方を考えるのです。

註5:「新しい可能性」と書きましたが、このことは、特にヨーロッパにおいて、何年も前から実践されています。ジャクソンが私に、この可能性について気づかせてくれました。

紙はそれ自体、人が心をこめてつくったものであり、ある魅力を持っています。とてもきれいな紙ならば、折ることによってその魅力が損なわれるかもしれません。そのような紙は折り紙には向かないでしょう。一方、折ることによって紙に潜んでいた魅力が引き出されるとき、すばらしい折り紙作品ができるでしょう(註6)

註6:この点に興味のある方は、前章読書ノート『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』を参照してください。

最後に、私がいま考えていることについてお話したいと思います。折り紙作品を人に見せたときに、たいていの人は「私も折ってみよう」とは思わないものです。ましてや「私も創作をしてみよう」という人はまれです。創作することや折ることに折り紙の喜びがあるのだとしたら、それをどうやって折らない人に伝えることができるでしょうか。

バルトはこういっています。「要するに、絵画の問題とは『あなたはトゥオンブリの絵が描きたいですか』ということである。」トゥオンブリの絵は、一見すると子供の落書きのようです。しかし、それは決していいかげんに描かれてはいません。それでも落書きのように見えるのは、「描く」という行為の喜びが表現されているからです。トゥオンブリの絵にもポロックの絵にも、しばしば数字が描かれます。ポロックは手形を使うこともあります。どちらも「書く・描く」という行為そのものに喜びを感じ、その行為のしるしを残そうとする子供の絵、スプレーの落書き、あるいは穴居人の絵を連想させます。

トゥオンブリの絵はクレヨンの優雅な飛翔の記録です。一方、ポロックの絵はもっと現実的な、重たい行為の記録ですが、いずれの場合も、私たちは絵の中にダンスにも似た身振りを見てとることができます。折り紙でも、作品を見る人に、紙を折る身振りを伝えることができるでしょう。紙を折らない人に、でき上がった作品を見せるだけで、「折る」という行為の喜びを伝えることができるでしょう(註7)。そのときにはじめて、西川のいう「四次元的」折り紙が成立するのではないでしょうか。

註7:このことはすでに吉澤が実現しているといっていいでしょう。

この考えについてジャクソンと話す機会がありました。彼はこういっていました。「折り紙作品は、それが一枚の紙から折られているという感覚を与えるようでなくてはならない(註8)。」

註8:もちろん、これは、実際に一枚の紙から折られている作品についていっているのです。

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by Koshiro