[home] [第4章] [back] [第6章]

折り紙の哲学

第5章 読書ノート
『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』

(電子版オリジナル)

音楽と折り紙はよく似ている、といわれます。音楽では、作曲家がいて、演奏家がいて、聴衆がいます。折り紙では、創作家がいて、折り手がいて、鑑賞者がいます。なるほど、この点では似ていますが、これは形式的な類似にすぎません。内容にまで踏み込んだとき、音楽と折り紙の共通点が見つかるでしょうか。『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』は、今世紀を代表する作曲家の一人であるジョン・ケージの音楽作品をめぐって、ケージとダニエル・シャルルがおこなった対話をまとめたものです。この本を読むことによって、ケージの音楽と折り紙の関連を探ってみようと思います。

二人の対話は、ケージが作曲をはじめた時期に形作られた概念を話題にすることから始まります。その頃、ケージは、音楽には四つの要素があると考えていました。素材・構造・方法・形態の四つです。素材とは音のことです。構造は作品を部分に分割することであり、方法は一つの音から別の音へ動くことです。そして最終的にでき上がった作品の外観が形態というわけです。この四つの要素は、一見すると、折り紙にあてはめることができそうです。折り紙作品は、素材は紙で、分子構造を持ち、ある決まった方法で折られ、形態を持ちます。

ですが、事態はそう容易ではありません。ケージにとって、構造と素材が一対の概念であったということに注目しなければなりません。素材はあらかじめあるのではなく、構造にしたがって用意されます。たとえば、アーノルト・シェーンベルクの音楽において、構造は調性によって規定されます。そこで、素材は、12の半音、高さにしたがって組織された音になるほかありません。ケージがシェーンベルクの弟子であり、しかもできのよくない弟子であったということはよく知られています。ケージは調性を拒否したのです。組織化されていない音、騒音を音楽の素材に組み込もうとしたからです。そこで、彼は構造を変える必要に迫られ、時間によって音楽を構造化したのでした。

このような関係を折り紙にあてはめようとすれば、素材が紙であると考えることは適切ではないでしょう。むしろ、折りが素材に対応します。分子構造のような、幾何学的な構造を持つ折り紙にとって、素材とは、組織化された折りです。つまり、原子や分子を構成する折りです。このような素材の組織化によって、近年非常に複雑な折り紙作品が次々と生み出されました。しかし、ケージにとって調性こそ喪失であったのと同じように、私には、幾何学に頼ることこそ、素材の組織化こそ、喪失であるように思われます。紙はそれ自身立体であるのに、幾何学はそのことを忘却するからです。

ケージはソルフェージュを批判します。ソルフェージュは、音が発せられる前に音を聞きとれるようにする訓練です。その訓練を受けると、人は決まった音だけしか聞こえなくなります。そうではなくて、音が発せられる以前には音は聞こえないと考えなければ、耳を開くことはできません。

折り紙設計は、まさに、紙を折る前に折りをよみとることです。あるいは、紙と折りとを分けることです。それは人の目を閉じ、折りの可能性を閉じます。この紙をこう折れば何かが現れるでしょう。しかし、実際に折る前に法則を思い浮かべるなら、法則にしたがったかたちしか見えなくなります。別のいい方をすれば、折りが組織化された折りと誤差とに分けられます。ちょうど音が楽音と雑音とに分けられるように。しかし、雑音も音であるように、誤差も折りなのです。そして、実際に紙を折ってみなければ、折り紙を経験することはできないのです。

では、なぜケージは素材の組織化を拒否したのでしょうか。それは、ケージがアナーキストであるからです。ケージは、ヘンリー・ディビッド・ソローの「最良の政府とは全く支配しない政府だ」という言葉をしばしば引用します。彼は、この世の中のさまざまな出来事は、同時に、無関係に、それぞれ固有の仕方で生起するし、それらをあるがままにしておけばよいと考えています。したがって、彼自身そのように生きたし、そのような音楽をかいたのです。彼は、あらゆる政治は余計なものだと断じます。

しかし、音楽ならばいっさいを組織化なしですますことができますが、人生はそうはいきません。バックミンスター・フラーのいうように、水や空気や食料や、ケージの言葉を借りればユーティリティ、については組織化が必要です。そして、この点において、音楽とダンスが区別されます。組織のないダンスはダンサーの身体を危険にさらします。二つの音がぶつかってもなんの問題もありませんが、二人のダンサーがぶつかると、片方がダンスを続けられなくなることもあるのです。ダンスが可能であるためには、ユーティリティの組織化が必要です。ユーティリティと美的体験が対立するのです。

その点で、折り紙は音楽よりもダンスの近くにあります。組織のない折り紙は、あるいは組織をあるべきところにおかない折り紙は、紙を危険にさらすのです。素材を組織する折り紙が、紙を破ってしまったり、紙をある部分に集中させてしまったりする場合、それは、組織する必要のないものを組織化しながら、組織しなければならないものの組織化を怠っているといわれるべきでしょう。折り紙において組織しなければならないものは、紙の厚みや折り目の幅や面の張力や、紙の物理的性質であって、そのためには幾何学は、せいぜい部分的にしか役に立たないでしょう。

ケージが音楽を時間にしたがって構造化するとき、そこには沈黙を、または意図しない音を組み込むことができます。そうすることで、音楽的な音と非音楽的な音とのあいだの区分がとりはらわれ、音が解放されます。ケージのいいかたを借りれば、「ふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否する」ことができるのです。そうして、ひとたび音と沈黙がとりかえられると、もはや構造が不必要であることに気がつきます。そこでケージは、偶然を使って作曲をするようになります。つまり構造をきりすててゆくわけです。

折り紙でも、幾何学ではなく紙の本性にしたがった構造をもちいることによって、あるいは構造をきりすててゆくことによって、誤差を、意図しない折りを素材とすることができるでしょう。たとえば目黒俊幸の『ウニ』について、北條高史は「『厚み』も重要な作品構成要素になっている」と、極めて適切に述べています。この作品を、一値分子の集まりにすぎないと考えるなら、作品の魅力をとらえそこねているといわれなければなりません。数多くのトゲが生み出す曲面は、紙に厚みがあればこそ、一値分子の外周が一直線上に乗らないからこそ生み出されるのです。

紙を折る以前には折り紙のかたちは見えないと考えれば、紙は雄弁であるということに気がつくでしょう。そのとき、折りは紙の魅力を引きだすものであって、ある場合には一折りで十分なのです。ポール・ジャクソンの一線折りが、まさにそのような仕方でつくられています。そこでは、紙の意図しないかたちが重要な役割を果たしています。そこにいかなる分子構造もないがゆえに、意図されない折り、組織化されない折りが素材となることができます。それは、折りの解放といってよいでしょう。

また、ここでは、折りだけでなく、紙も解放されています。一線折りの場合、意図された折りは一つだけです。紙にその一折りが加えられるとき、紙は、折り手が意図しないかたちで折れるのです。紙は折り手に応えます。さらには、紙が折り手に対し、どこを折るべきかを指し示したりもするのです。紙は単なるメディアであることをやめて、主体となります。そのとき、折り手は創作者になり、創作者は鑑賞者になります。ちょうどケージが、演奏家を作曲家にし、作曲家を鑑賞者にしたように。

そのとき感情は、作品の中ではなく、鑑賞者の中に位置を占めるようになります。芸術が主観的であるとすれば、そこで問題になるのは作者の主観ではなく、鑑賞者の主観なのです。創作者、折り手、鑑賞者、そして紙のそれぞれのあいだで起こることは、感情の伝達ではなく、会話になります。オブジェをおしつけるのではなく、プロセスが生じるのです。そのことによってはじめて、各人が自分の感情の責任者になることができます。紙の解放は人間の解放でもあります。

参考文献 ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青山マミ訳(青土社 1982)


[第4章] [第6章]
by Koshiro