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折り紙の哲学

第3章 一線折り
折り紙とは何か

(折紙探偵団新聞第44・46・48号)

これまで、「折り紙とはなんだろうか」という問題、特に「折り紙」と「紙を折ること」との違いという問題について考えてきました。この章では、ポール・ジャクソンの「一線折り」の作品群を中心に、この問題を考えたいと思います。その理由は、これらの作品が折り紙と紙を折ることの境界部分にあると考えるからではなく、むしろ、これらの作品こそが折り紙の中心にあると考えるからです。

一線折り

図1 図2

私の拙いスケッチで恐縮ですが、ジャクソンの作品のいくつかを紹介しましょう。図1と図2が「一線折り」、図3と図4はそうではありません。こうして4つの作品を並べてみると、後者2つは明らかに「折り紙」に見えるのに対し、前者2つは一見すると折り紙には見えません。この章では、一線折りが折り紙に見えないということを事実として認めた上で、なぜそうなのかを考え、さらに、それにもかかわらず一線折りは折り紙であると主張したいと思います。

図3 図4

なぜ折り紙に見えないか

一線折りはなぜ折り紙に見えないのでしょうか。折り線の数が少ないことが原因でしょうか。しかし、図3の『象』も折り数は少ないですが(たったの3回!)、ちゃんと折り紙に見えます。また、一線折りは決して折り線が一本ということではありません。一線折りとは、折る動作が一回ということですが、実際には、一連の動作の中で何本かの折り線をつけることになります。「一連の動作の中で何本かの折り線をつける」ということは、すべての折り紙作品に共通していえることではないでしょうか。 図5

図1や図2の作品は平面を主体として構成されているのに対し、一線折りは曲面を主体として構成されています。しかし、曲面を主体として構成された折り紙作品は、川崎敏和の『バラ』(図5)をはじめ、数多く存在します。このことは主な理由ではないでしょう。

一線折りの題名

私の考えでは、一線折りが折り紙に見えない最大の理由は、一線折りの作品には題名がついていないということです。もっと正確にいえば、一線折りには「見立て」が存在していないのです。多くの折り紙作品には名前がついており、ほとんどの場合、その名前は、その作品が何に見立てられるのかを示しています。ある作品を「象」に見立てたとき、その作品に『象』という題名をつけるのはごく自然なことです。

ここで注意しておかなければならないことは、題名をつける権利があるのは作者だけとは限らないということです。たとえば音楽の例でいえば、ベートーベンのピアノソナタに『月光』という題名をつけたのはベートーベンではありません。したがって、一線折りの作品にジャクソンが題名をつけていないからといって、題名をつけることができないということにはなりません。でも、どんな題名をつければよいのでしょうか。せいぜい『収束』とか『焦燥』といった抽象的な題名しかつけられないでしょう。一線折りは、一切の見立てを拒否しているかのようです。

見立てと折り紙

見立てが折り紙にとって重要な要素であることは疑う余地がありません。長方形の紙を3回折ったものは、「象」に見立てられることで、はじめて折り紙として成立します。一線折りに見立てが存在しないとしても、それでも一線折りは折り紙であるといえるでしょうか。

音楽には、標題音楽と絶対音楽があります。標題音楽には、例えば『英雄の生涯』という題名がついていて、その曲が「英雄の生涯」を表象していることを示しています。それに対し、絶対音楽では、題名は例えば『交響曲第2番』となっていて、その曲は何かを表象しているわけではありません。

絶対折り紙

一線折りが折り紙だとすれば、それは、いうなれば「絶対折り紙」ということになるでしょう。ところが、折り紙界を見渡してみれば、すでに絶対折り紙が存在していることがわかります。例えば内山光弘の花紋折り(図6)、布施知子の箱(図7)や螺旋の作品群がそうです。折り紙の箱は、端的に「折り紙の箱」なのであって、箱に見立てられているのではありません。

図6 図7 図8

ただし、箱に見立てられた折り紙の『箱』は存在し得ます。箱とはちょっと違いますが、例えばデビット・ブリルの『升』などはその例です(図8)。この作品自体は升の機能をもたず、この作品とは別に実際に機能する升があって、この作品はその升を表象しています。したがって「標題折り紙」だといえます。

このように、すでに見立てのない折り紙が存在しているのですから、一線折りに見立てがないとしても、その理由だけで折り紙ではないということはできません。また、逆のいいかたをすれば、折り紙にとって見立ては必要条件ではないということにもなります。

折り紙の条件

いままで、ポール・ジャクソンの一線折りは折り紙といえないことはないという話をしましたが、次に、積極的に、一線折りは折り紙であると主張したいと思います。そのためには、折り紙の条件を明らかにしなければなりません。

折り紙の条件を見つけるには、どうすればよいのでしょうか。

まず、私たちはすでに「折り紙」という概念を使っているということを確認しましょう。私たちは、折り鶴は折り紙だと思っていて、新聞は、紙を半分に折ってあるにもかかわらず、折り紙ではないと思っています。そこで、とりあえずは折り鶴と新聞の区別ができるような条件を探します。

その条件を使って、いままでは折り紙かどうかわからなかったものを判定することができます。しかし、数学と違って、この判定に不服があれば、ためらわずに条件を変更するべきです。ある場合には、条件から得られた結果が常識と異なっていても、「そういわれるとそうかな」と思える場合があるでしょう。そういう場合は常識のほうを変えます。こうして、私たちの常識と言葉で表された条件をすりあわせてゆきます。

いままでの議論からわかること

図9

「折り紙は紙を折ったものだ」というわけにはいきません。これでは新聞と折り鶴の区別がつきません。また、「不切正方一枚」を条件に入れてしまうと、ユニット折り紙やブリルの『馬』(図9)や吉野一生の『ティラノサウルス全身骨格』が折り紙でないことになります。さらに、先程の議論から、「見立て」という概念も折り紙の条件としては不適切であることがわかっています。

折り紙という営み

私たちが折り紙をする場面を考えてみましょう。折り紙は正方形の紙を使ったり、三角形の紙を使ったり、五角形の紙を使ったりします。最近は便利なことに、気のきいた人たちが紙を正方形に切ったものを売っていますが、折り紙は紙を所定のかたちに切るところから始まるといってよいでしょう。

次にその紙を折ります。もちろんこれがメインです。これで終わる場合もありますが、くす玉をつくるときは折られた紙を組み合わせなければなりません。また、かたちを整えるのに糊を使う場合もあります。つまり、折り紙では、紙を切って折って貼ります。

それだけならば、市販の封筒だって、紙を切って折って貼ってあります。折り紙の封筒はありますが、すべての封筒は折り紙である、といったらいい過ぎでしょう。紙の切り方、折り方、貼り方に制限がなければなりません。

折り紙の条件・私案

以上の議論をふまえて、折り紙の条件として、次のような条件を提案したいと思います。

「折り紙とは、紙を折る前には明らかになっていなかったかたちを、紙を折ることによって引き出すことである。」

例えば、折り鶴は正方形の紙から折るわけですが、正方形の紙をいくら眺めても、その中に折り鶴のあの立体的なかたちは見えてきません。紙を折ってはじめて、折り鶴のかたちがあらわれます。一方、封筒の場合、封筒のかたちにするべく紙を切りますので、紙を切った時点で封筒のかたちが見えてしまいます。

この条件の、「明らかになっていない」「折ることによって」という基準はとてもあいまいです。ですので、この条件自体もあいまいです。しかし、「折り紙」という概念自体がとてもあいまいである以上、それは当然のことです。それでも、この条件は、折り紙とペーパークラフトを区別できるほどには、はっきりしていると思います。

名作の条件

図10

さて、この条件にてらせば、ジャクソンの一線折り(図10)は折り紙であるといえるでしょう。一線折りの、あの悠然とした、あるいは緊迫した、あるいは官能的なかたちは、もとの正方形の中に見いだすことはできません。そして、効果的な折りによってかたちが引き出されています。

さらに、一線折りは折り紙であるだけでなく、名作であると主張したいと思います。そのために、名作の条件を考えます。

とりあえず、折り紙の条件の表現を使えば、名作とは、よいかたちを、よいしかたで引き出したものだといえるでしょう。

よいかたち?

例えば、紙を折って馬をつくりたいとします。そのとき、「よいかたち」とは何でしょうか。実物の馬と寸分違わぬプロポーションをしていればよいのでしょうか。

つくりたいものが「馬の模型」であれば、そうです。実物の馬とカドの数を合わせ、カドの位置を調節して、カドの長さを計算すれば、すばらしい馬のミニチュアがつくれます。

しかし、あなたのつくりたいものが「馬の折り紙」ならば、話は違います。馬の折り紙は、実物の馬と見た目が似ている必要はまったくありません。馬の模型に耳がなければ欠陥品ですが、馬の折り紙に顔がなくても、そのこと自体は問題にはなりません。笠原邦彦の『象』(図11)には牙がありませんし、拙作『鳥』(図12)には羽がありません。

図11 図12

意外性

もう一度折り紙の条件に戻って考えてみましょう。折る前の紙は、あるかたちをしています。それは正方形かもしれませんし、そうでないかもしれません。どちらにしても、紙を折るごとにそのかたちが変わってゆきます。そうしてできたかたちは、いわばもとのかたちの中に含まれていたかたちです。ここで、最終的なかたちがもとのかたちの中に含まれているということが簡単にみてとれる場合、例えば正方形の紙を三角に半分に折って『山』といった場合、そのようなかたちを引き出したところでおもしろくも何ともありません。

折り紙にとっての「よいかたち」を一言で表すとすれば、「意外なかたち」といえるでしょう。不切正方一枚のカブトムシをつくることがすごいことであるのは、単にカブトムシをつくったからではなくて、正方形からカブトムシをつくったからです。はじめからカブトムシのかたちをしている紙を使ってカブトムシをつくったのでは、名作とはいえません。

正方形やそれと同じような単純なかたちをした紙から、実物とそっくりなものを折ることは、それ自体でなにがしかの価値があるといえるでしょう。正方形の中から6本の足と2本の角をもつカブトムシのかたちを引き出してくることには意外性があります。しかし、意外なかたちが引き出されていれば名作であるということはできません。カブトムシを折るとき、はじめに紙をくしゃくしゃに丸めて、ピンセットで必要なカドをつまみ出すようにして折ったとしましょう。こうしてできたカブトムシのかたちがもとの正方形の中に含まれているとは驚くべきことで、意外性があるといえますが、このような作品が名作だと考える人はいないでしょう。

素直さ

よい引き出しかたを一言で表すとすると、「素直なしかたで」といえると思います。素直さには2つの側面があると考えられます。まず、折りの工程は、物理的存在としての紙に対して素直でなければなりません。紙が途中で破けやすかったり、紙の厚さを考慮していないために特別に薄い紙を使わなければ折れない作品は、低い評価を受けるでしょう。また、糊を使わなくてもできあがりのかたちが保たれる作品、例えば折り鶴などは高い評価を受けるでしょう。

もう1つの素直さは、もとのかたちに対する素直さです。不切正方一枚の作品が、紙の多くの部分を無駄に使っているとすれば、正方形の紙を使った意味がありません。また、動物の前半身に紙の多くが集まって、後半身が薄っぺらになってしまうというのもあまりいいこととはいえないでしょう。

まとめ

まとめると、名作の条件は、「意外なかたちを素直なしかたで引き出すこと」ということができるでしょう。さて、ジャクソンの一線折りですが、先ほども述べたように、あのようなかたちが正方形の中に含まれているというということは、一線折りの作品をみなければ気がつきません。また、折り工程は実に素直です。素直さに関しては、ほかのどの折り紙作品にも劣らないといってよいと思います。

ただし、一線折りの作品がすべて名作であるわけではありません。一線折りの技法を使ったからといって必ず名作になるとはいえません。個々の作品を評価するには、このような一般的な議論は明らかに不十分です。私たちは、個々の作品について、そのつどそれぞれに評価をしてゆかなければなりません。そのときに、人によって評価が異なることもあるでしょう。大切なことは、自分がある作品を好きになったとき、どうしてその作品が好きなのかを考えてみるということです。


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by Koshiro